シリーズ 最期に暮らす、とっておきの家 ①

最期? とっておき?

 

このシリーズの題名「最期に暮らす、とっておきの家」は以前に担当であった女性、通称「おっちゃん」が決めたものだ。前回のシリーズ「イマドキの二世帯住宅」の今時をカタカナにこだわったのも「おっちゃん」であった。その「おっちゃん」は退社していないが、こうした題名からも感じられるように中々ユニークな人であった。

 

今回のシリーズの課題は結構難しい。

最期に暮らす・・・これは死ぬまでという意味?

とっておきの家・・・棺桶のこと?

最後まで分からないのが、人の「生き死に」でしょう。

とっておきの家は、死に場所になるのだろうか。

これは家づくりのテーマになるのか、ふさわしいのかと強く感じたが、一方でとても魅力的なにおいがして捨てがたくなった。

うんうーんと苦しみながら書いてみるかという気になった。

まとまった文章になるかどうかは自信があるとは言えないが挑戦してみようと覚悟し、今回を含めて17回のシリーズとした。お付き合いしていただければ幸せの極致だ。

 

初回の題名は「この家で生き切ると言う意志」と考えた。

一回の原稿の長さはA4用紙1枚と決めているので残された行数はわずかだが、言いたいことは単純だ。「最期に」を「生き切る」とし「とっておきの家」を「この家」とした。「生き切る」と「この家」に強い意志を反映させた。

この原稿を書いている今現在(2016.5.12)私は68才である。「最期」のイメージが具体的に浮かべることが可能な年齢になった。自分の事ばかりではなく周りの親しい人たちを含めて、それは現実的なことでもある。

そうした意味でも重たいテーマだが逃げて通れる話ではない。

残り何年か何十年かは知る由もないが、「最期」は必ず来る。「最期」はこの娑婆とおさらばする日、その日は自分が人間として最も成長した姿でありたいと若いころから願ってきた。その「最期」に暮らしている家は「とっておき」に決まっている。

「おっちゃん」のイメージした内容とは違うかもしれない。何しろ彼女は娘のような年齢であったので彼女の思い描いたものとは異なって当たり前と思い、この後は自分で感じ考えていることを書き綴っていこう。

2回目の原稿の題は「先立たれるのは嫌だ」にした。

さてどうなることか。


シリーズ 最期に暮らす、とっておきの家 ②

先立たれるのは嫌だ

 

共に暮らす相手に自分より先に行かれてしまうのは想像しただけでもぞっとする。ましてや先立たれた経験をもつ者であれば尚更だろう。私も毎日のようにパートナーから言われている。あなたは後からよと。そのパートナーは私より一回り若い。どうすりゃいいのだ。

見送られた方がいいのか。見送った方がいいのか。

自分の辛さだけを考えるのなら見送られた方がいいのだろう。それでも残していく辛さは残るか。所詮こんな問題に答えはないのだろう。

私の周りには一人暮らしの方が結構いる。90才を超える人も含め片手に余る。住まいの形態も広さも暮らしようも様々だ。

先立たれた方、離婚された方、独りを貫いた方とこれまた多様性に富んでいる。住まいも戸建、マンション、賃貸と様々。

それにしても結局、人間最期は「ひとり」なのかと感じさせられたりもする。

住めば都とのことわざ通り、人はどんな所にでも住めるしそれなりに慣れても来る。そう考えると住まいなんて何でもよさそうだし、こだわる必要性もなさそうだが、現実はそういうわけでもない。

住まいがきれいになり自分のイメージに合うように改装されてから、毎日の生活が充実し楽しさが増してくる、その結果、人生が生き生きとしてくる、それはどうも事実のようだ。やはり住まいという環境のもつ力は馬鹿にできない。

話をテーマに戻せば、住まいという環境を自分に合ったように整えることで、先立たれた辛さや独りの寂しさを後ろ向きの暗さから前向きの明るさに変える、そんな可能性は大きいようだ。

先立つにしても後から行くにしても、それは自分で決められることでない。人知を超えたことだ。そうであれば受け入れるしかない。受け入れられる心の力が必要だ。

人は生きていくのに、衣食住は欠かせない。現在の日本では衣食は何とでもなるだろう。負担の大きいのはやはり住だ。

居る場所の安定的な確保は、心の安定にもとても大切なことだと思う。人の心は強くもあり弱くもある。身体が順調であれば心もそれなりに安定する。

住まいは食べ物に負けず劣らず健康に影響を及ぼす。極めて単純なことだが、健康で居心地のいい家の重要性が、こんなテーマでも浮かび上がってくる。

暖かい、涼しい、湿気のコントロールができていて爽やか、嫌な化学物質が住まいの環境にない、生活しやすい間取りなど、たとえ独りで住んでいるとしてもとても重要な要素に変わりはない。


シリーズ 最期に暮らす、とっておきの家 ③

大切に思えるか

 

今回もまとまりのない文章になりそうな予感がする。「おっちゃん」テーマが難しいぞ。それでも頭に浮かぶまま書き記していこう。

自分を大切に思えるか。相手を大切に思えるか。住まいを大切に思えるか。こんな思いでこの題名が浮かんだ。はずだ。

「最期に暮らす」を「生き切る」と言い換えることもできるであろう。人生を何とはなしに生きてしまうのはもったいない。人生にはいろいろなステージがあるし局面がある。学業に励む時代、仕事に夢中になる日々、第二の人生と言われる時期、終末期。そして家族・身内がいる。

「最期に暮らす」は何も終末期だけのテーマではない。生まれてから死ぬまで、どんな時期にも当てはまる大切な要素だと思う。「死ぬ気でやれば」「最後だと思って」との表現で励まされたり怒られたりした方も多いであろう。

日本人の頑張り精神が感じられる表現だが、心にゆとりがない感じもする。

もう少しゆったりとした感じで、でも何となくダラダラと生きるのではなく本気で生きている。そんな暮らしのイメージを「最期に暮らす」ととってみてはどうだろうか。

随分と強引な解釈にも思えるが、もう一つ「最期に暮らす」には「死ぬ気でやれば」「最後だと思って」とは異なるイメージが浮かぶ。

「暮らす」という表現の中に、共に暮らす相手がいるという絵柄を思い描くことができる。ここから「大切に思えるか」という今回の題名が出た。

共に暮らす相手を大切にする。一緒に暮らす住まいを大切にする。その前提として自分自身を大切にする。

自分たちが暮らしている住まいを大切にする。それは持ち家でも賃貸でも同じことだ。掃除好きの方も掃除が嫌いな方もいるだろう。家の掃除も毎日のこととなると中々大変なことだろうが、こう考えると、異なるイメージが持てるかもしれない。

「家を自分の心」と考える。家をきれいに保つことは自分の心をきれいに保つこと。自分の心を直接きれいにすることはイメージしにくい、どうしていいか分からない。

かなり昔に「家を掃除すること=自分の心を掃除すること」の方程式を思いついた。それからは掃除をすることに抵抗がなくなったが、今はそれがエスカレートしている。現在のパートナーは極めて掃除好きだ。その結果、早朝の犬の散歩終えてから、二人で一時間あまりの掃除が日課になった。犬の足を洗った後の風呂掃除から、家中を掃除機、モップ、雑巾で徹底的にする。掃除が終わってだいたい7時。それなりの運動量なので、心の掃除はともかく、身体を動かした気持ちよさは間違いなく得られている。

やっぱり、何がテーマなのか分からない文章になってしまった。


シリーズ 最期に暮らす、とっておきの家 ④

長生きしなくても

 

「健康に生きる」と「長く生きる」は異なることと思っている。

団塊の世代である私は今68才だが、後10年後20年後の日本社会を思い描くと、大変だなと素直に思う。何といっても人数が図抜けて多い。その我々が集団で年を取っていく。元気で自分のことは自分できればいいが、その多くが介護を必要とするようになったらどうなるのか。団塊の人間は、とにかく健康に生き切ることが社会に対する責任だと感じている。

そうした世代論と共に身近に死にそう遠くはない人が多くなってきたこともあってか、自分はどう生き、どう死んでいくのか、特に死について具体的に意識するようになってきた。現在は持病もなく健康なのだが、パートナーとの日常会話の中で死は普通のテーマとなっている。

「死ぬまで健康」が理想形であろう。いわゆる「ぴんぴんころり」。

いつ死ぬかを知ることはできない。しかし一般的な心身に恵まれた者であれば、自分の意識と努力で健康レベルを保ったり上げたりすることは可能なことだ。

人間の大きな喜びの一つに「人のお役に立てる」ということがある。年齢を重ねて毎日の生活を誰かのお世話にならなければ成り立たない状態は辛い状況だと思う。

しかし現実には、団塊の世代の高齢化と共にそうした人たちが増加していくのだろう。

「健康に暮らし元気に死んでいく」そんな暮らしのできる環境が理想だ。

そのためには、家という空間環境と家族という人間環境の二つの要素が必要だ。もちろん前提として生活していく資金はあるということがあるが、ここではそれは前提としている。

高齢になると家を新しくしたりリフォームしたりことにためらうようになる。「今更」という感覚のようだ。この「今更」が曲者だ。

住まいという毎日過ごす空間の与えている影響はとても大きい。毎日暮らす空間を新しくしたことで気持ちが若返り毎日の生活が華やいできた例は多い。新しい住まいの若返り効果だ。家だけが若返るのではない、そこに暮らす高齢者が若返る、そんな素晴らしいことが起こるのだ。

家を新しくしたりリフォームしたりすることは、決心がいるし具体的に頭を使う。それもかなり真剣に。新しい空間での生活は工夫も必要になる。極めて優れた「脳活」だ。

こうしたことに喜びを感じれば、心はさらに華やぎ一層生き生きとしてくる。この相乗効果はとても偉大だ。

そして世代論的にはお金を持っているといわれる団塊の世代。自分も生き生きしながら社会に生きたお金を戻す、そんなロマンもあるだろ。


シリーズ 最期に暮らす、とっておきの家 ⑤

あらためて持ち家か賃貸か

 

住宅屋である私がテーマにするような事ではないかもしれないが「最期に暮らす家」という観点からは避けて通れない内容かと思い、この難しいテーマに立ち向かおうかと決心した。「最期に暮らす」というからには家で人生を終えるというイメージが素直に浮かんでくる。最近は自宅で最期を迎えられる人は少ないのではと思い調べてみたら、厚生労働省2013年データでは、自宅で最期を迎えたが12.5%で、ほとんどが病院でとなっている。1952年は家で最期が82.5%なので様変わりだ。

自分の周りを見ても納得できる数字ではあるが一方で驚きでもある。これでは「最期に暮らす家」は不必要とも思えてしまう。

また最近はこんな言葉もよく目にするようになった。「持ち家貧乏」「下流老人」「晩年の貧困化」「老後破産」・・・なんとも老後に希望の持てない感じではあるが、一般論で論じても仕方ない。 少し自分なりに話を整理してみよう。

住まいに質を求めるということを前提にすれば、賃貸で満足できる可能性はまずなくなるだろう。私は健康という観点から住宅の質にとことんこだわった家づくりの仕事を40年余りしてきた。その健康で快適な空間となると賃貸ではありえない話だが、状況によっては賃貸もそれなりにありうるのではと最近は思い直してもいる。

ネット上では持ち家と賃貸住宅の比較サイトは数多くあるが、そのほとんどが金銭面での損得勘定のようだ。この比較も年齢や家族構成、土地の有無などあるいは住みたい場所など前提とする要件が様々に動くので金銭だけに比較要素を絞っても答えは一つではないだろうと思われる。

賃貸では可能で持ち家ではなかなか困難な要素は立地条件だろう。例えば駅から1分以内あるいは住みたい場所の土地が高すぎて手がでないなどが考えられる。そうした場所に住みたいと願えば可能性は賃貸でしかないだろう。

またこのシリーズのテーマである「最期に暮らす」という観点からは、自分が死んだ後あるいはパートナーに先立たれた場合の、家での暮らしそして家の始末を想像すると持ち家の重たさも感じてしまう。

高価な物という意味では、都会の家が日本では断トツに高価格なものであろう。高価なものを持つ喜びも大きいが、持たずにシンプルに生きる喜びも一方にある。

家づくりという贅沢な仕事を40年近くさせていただきながら、持たない美学みたいなかっこよさにも若干のあこがれはある。どうしたものか・・・

賃貸住宅でも今まで培った健康住宅の経験と知識をフル動員すれば、限界はあるが相当程度健康的で快適そして自分のセンスにあったしつらえはできる。そんな相談もOKとするかな。


シリーズ 最期に暮らす、とっておきの家 ⑥ 

 

脳は衰えないという

御多分に漏れず、私の周りにも高齢者が多い。それもあって最近は長期療養病院などに行く機会も多くなってきた。今回のテーマは「脳は衰えないという」。だが、現実に目にする多くの姿は、ベッドの上で寝たきりしかも認知機能も衰えてしまっているという、テーマとは逆の現象だ。

いくら平均寿命が延びていると言っても、こうした姿の方が多いのではと考え込まされてしまう。

一方で、筋肉と脳は何歳でも鍛えられるそして衰えにくいという話もよく聞く。その学問的真偽はともかくとして、そうであればいいし、そうありたいものと願う。

人間はもともと個人差が大きいものだが、年齢を重ねるほどその言葉は当てはまる気がする。

ピーターパンの作者はずっと子供のままでいたいとの思いがとても強かった人らしく、大人になっても子供のような若さを保っていたと、昔何かで読んだことを思い出した。

実際にどうであったかは知らないが、ここに若さを保つヒントを感じている。その強い思いが重要なのだろう。

脳の活動には特に必要なことかもしれない。「思いは実現する」の格言は脳の機能の維持発展にもそのまま当てはまりそうだ。若さを保てる人は、いつまでも前向きに強い思いを抱き続けられる人ということなのだろう。

思いを向けられる何か生き甲斐が必要ということにもなる。

また人間である限り何歳になっても悩みはあるものだと思うが、その時に重要なことは「心には心だけで対処しない」ということだと最近は感じている。

多少説明がないとわかりにくいかもしれないが、心の悩みには心の持ち方など少し見方の観点を変えるなどで楽になることも多いが、それにプラスして心の要素だけではなく身体を上手に使えばもっと心が楽になると思っている。

心の持ち方だけだと堂々巡りに陥ることもあるが、身体も同時に使えば、例えば散歩や運動を習慣化する、手を動かす趣味、楽器を弾く、歌を歌う、書や絵を書くなどを定期的に行えば、より心は穏やかになりうるし。家事を無心にするなどもとてもいいことだろう。

脳は心や身体を司っていのだから、心と身体を上手に使えば相互にプラスに作用するのは当然のことなのだろう。ということは身体を若く保つことができれば、脳も若く保つことができるという事なのだろうから、食生活や運動など毎日の生活習慣がとても重要な要素であるということでもある。

いつまでもやることがあり日常生活を大切にするという当たり前の事に落ち着く。


シリーズ 最期に暮らす、とっておきの家  

 

新たなる挑戦を

最期まで健康に住まう、そのためにも心身を若く保ちたいものだが、そのための一つの方法として新しいことに挑戦してみるという事がある。

仕事に現役の時は仕事そのものが次から次へと新しい挑戦事を生み出してくる。仕事をできる限りし続ける意味はここにあると思うが、それでも時間に余裕ができてきた我々世代は今までやっていなかった事に挑戦してみたらいい。

若い頃からずっと趣味を持ち続けてきた人はうらやましい限りだが、私のように仕事以外興味はなかった方も多いことだろう。

そういう方のために私なりのヒントを提案してみたい。

一つは、苦手だった事やってこなかった事に挑戦をする。もう一つは、人に教えを乞う事。要はやってなかった事を基礎からきちっと習いそれを続けるといいと思う。

職場でベテランになってくると人に教える事は多くなるが、教えてもらうことは少なくなる。当たり前のような事だが、これに甘んじる事は良くないことだと思う。

若さがなくなる、謙虚さを失う、成長が止まるなど自分の残された人生にはあまり良い事はなさそうだ。

そういう意味では自分が経験してこなかった事は、先入観念なしに素直に学びやすいだろう。自己流ではなく先生に付き一からスタートできれば最高だ。もっと言えば、パーソナルレッスンで若い先生を選べればより良いだろう。

できれば身体を主体に使う事と頭脳や感性を主体に使う事の両方をやれればとても素晴らしい。

贅沢な話のようだが馬車馬のごとく働いてきた日々を思い起こせば、老後の生き方としては良いことなのだと思う。

そしてそれは家族に迷惑をかけない嫌われない自分づくりにもつながりそうだ。いきなり家族と過ごす時間が多くなることは結構負担が大きいだろう。それは家族全員にとってもそうだと思う。

会社でえらいさんであったという事が、家族の中では迷惑な存在になりかねない。そういう上から目線の自分を一年生の心境に戻してくれるのが習い事だとしたら良いことづくめではないか。

素直で可愛い一年生になろうではないか。それに大人になってから家庭で長い時間を過ごすという経験は、ほとんどの人にとっては初体験のはずなのだろうから、その行き方、仕方を一つひとつ学んでいくという心がけをもてば結構穏やかな幸せ気分を味わえる時間も多くなるだろう。

そう意味ではこれからの生き方すべてが挑戦なのだと思わされる。


シリーズ 最期に暮らす、とっておきの家  

 

家の役割

 

家の役割なんてテーマで考えたことはこれまでなかった。この題名も深く考えたわけではなく勝手に浮かんできた。何を書いていいのか、頭の中は真っ白・・・

まずは住宅屋らしくいこうか。家の最低限の役割は、住まう人を守り育てるものだろう。

守り育てるといってもその意味はあまりにも広く深い。それに守り育てるは、人が人になす行為であろう、家の役目とは思えない。

しかし家は住む人にとっての環境。それも最も身近で小さい環境だ。そうとらえると、その役割は果てしなく大きくも感じる。

家はある場所にある。その場所はある地域にある。その地域は日本にある。日本は地球上にある。地球は宇宙にある。

という風に広げていけば、家という小さな環境も意味合いは重くなりそうだ。

エコロジー、環境浄化も地球規模で考えると他人ごとになりがちだが、自分の暮らす家から見つめると途端に身近なものになる。大上段に構えるのもいいが、一方で自分自身の暮らしを見つめなおして、毎日を過ごすという当たり前のことが、とても重要なことなのだということに気づかされる。

そして家族との暮らし。この当たり前のことも「最期に暮らす、とっておきの家」という今回のテーマが頭にあると、とても深い重要な意味合いを帯びてくる。どんな人でも生まれてくる時と死ぬ時は誰かのお世話になる。

最期に暮らすは死ぬ時も含まれる。それが家であろうが病院であろうが。そして究極のことわざ「終わり良ければすべて良し」。この言葉を人生そのものに当てはめられる生き方ができれば素晴らしい。人は実に様々な生き方をしている。そしてどなたであれ、その人にとっては波乱に満ちている。

人生の後半が、少しでも心豊かに落ち着いた気持ちで生きられるようになれば、良い終わり方ができるかもしれない。良い終わり方ができればいい人生だったと思えるのだろう。それは自分の心の中でしかわかりえないことなのだろうが。

自己中心で自分勝手な生き方だけでは、良い終わり方はできないのかもしれない。人生の後半の充実は、家族との暮らしにかかっている。最期は独りとり残される可能性も高いが、それまでの家族との暮らしがきちっとした終わり方に導いてくれるのかもしれない。

我々団塊の世代の終わり方は社会に与える影響が大きいだろう。何といっても人口がとびぬけて多いのだから、ひずみも大きくなる。我々団塊の世代は、きれいに終えるイメージを強く抱いておかなければならない。この家で終わりたいという家がほしい。


シリーズ 最期に暮らす、とっておきの家  

 

その人らしさがある

 

家は暮らしている人の個性がにじみ出てくる。仕事柄いろいろの方の家を訪問してきたが、その都度感じさせられる。一人として同じ人はいない、と同様に、一つとして同じ家はないという事か。

個性が出ていると表現すると悪い感じはしないが、一人の人間の中には様々な要素が潜んでいる、たまたまその時に表出しているのが、その人のその時の個性ともいえる。

人間は時間と共に変化していくものだから、表に現れる個性も大きく変わっていくことも珍しくはない。

住まいに限定して考えると、家は個性を育む場所、個性を磨く場所、個性を生かす場所、個性を見つめる場所・・・そんな感じなのだろう。

注文住宅は、その家族の個性を前提につくりあげていくものだ。そして家族の個性は、時間と共に変化していく。ここに注文住宅の難しさの一つがある。

建てたその時は良かったが、時間と共に良さが失われていくという現象が生じてくる。家づくりに関わらず、このような色あせ現象は世の常であるが家に使われるお金は膨大なので、いつまでも満たされたいと願うのも当たり前の気持ちであろう。

家族の個性、その人らしさが時間と共に変化していくならば、家もそれに応じて変化していければ素晴らしい。

また家族の個性だけではなく、家に住まう家族の人数も、時間の経過で大きく変わっていくことは普通のことだ。それだけに、家自体の対応性、柔軟性は相当に重要なことと言える。

こうしたことを見据えて、私たちが長年提案してきたのが「広がり空間」である。

壁紙やカーテンは変えられても、間取りの変更は難しい。家族の人数が変化して、一番困るのが部屋数とか間取りの問題であることが多い。使わない空間、使えない空間が、できてしまう。開かずの間の誕生だ。

二階はすべて開かずの間になってしまった家は、今や珍しくもない。それはそれで仕方のないことかもしれないが、夫婦二人になっても、一人暮らしになったとしても、せめて一階の空間くらいはのびのびと自在に使える、「広がり空間」はそんな間取りの提案でもある。

空間が広がっていると、ちょっとした模様替えやテーブルの位置を変えるなどは簡単にできるし、目線の通るそしていつもいる空間の変化なので、いい意味での生活の刺激は大きい。

暮らしの中での工夫が簡単にでき、その人らしさがさらに増すというものだ。


シリーズ 最期に暮らす、とっておきの家 ⑩ 

 

いつが最期かはわからない

 

人生の難しさの一つは、いつ幕引きなのか、それが分からないということもある。

もっとも終わりの時期が、分からないからこそ安心して生きているということなのだろうが。どうであれ分からないのだから、それを前提に生きていくしかない。

人の一生には時期に応じての区切りがある。学校も卒業があるし、就職には定年がある。その区切りに応じて準備もできるし心の整理もできる。

しかし死に関してはそうはいかない。誰にも100%間違いなく訪れることなのに、いつなのか、明確なことはわからない。

それゆえ「一日一日一瞬一瞬を大切にして生きる」という金言も生まれたのだろう。

「終の住い」を実際の死に場所と思うことは現実的ではないかもしれない。最近では、ほとんどの方が病院で亡くなっているのだから。

「終の住い」は、その人の人生において最期にある程度の期間を暮らした家ということになるのだろう。

この人生は修行のために生まれてきたという死生観にたてば、当然最期まで楽ができるはずはないだろう。そういう覚悟で残りの生に臨めば、あまりジタバタしないで最期を迎えることができるかもしれない。

人は基本的には自己中心だが、余りに自分の事ばかりを軸に生きていると苦しくなってくる。一方で人は、自分以外に尽くす気持ちもある。

そして面白いことに自分以外の人やペットなどのために一所懸命になっていると、自分の苦しみは横に置かれ、案外忘れてしまって心が楽になっている、そんな経験はどなたもしていることだろう。

人生の最期を生き切る、それは自分以外のなにものかに尽くすことなのかもしれない。その尽くす対象は人によって様々であろうが、苦楽を共にしたパートナーがいるならばその最も身近な存在に尽くすのは最低限なことかもしれない。

尽くすというと言葉の響きが大げさで余り使いたくない表現でもあるが、これからも共に生きていくのだから、もう少し気楽に力を抜いて、できれば楽しく、ありがとう、という気持ちで毎日を過ごしていくという事か。

人によっては仕事以上に大変なことと感じるかもしれないが、自分の心を丸く大きくしていくチャンスととらえることができれば、意外とそこに喜びを見出すこともできるか

もしれない。

家づくりもある年代になると自分よりもパートナーや次の世代を見据えてされる方が多い。いつ幕が引かれるか分からない人生、そんな人生を生き切れれば素晴らしい。


シリーズ 最期に暮らす、とっておきの家 

 

いいわるいはない 必要なことが起きているだけ

 

家づくりをテーマにしているのだが、どうしても内容が広がってくる。家では赤裸々な人間の生活が繰り広げられているのだから、家づくりを真剣に考えると、人の暮らしや心模様に踏み込んでしまうのも当然の流れかもしれない。

「最後に暮らす」が今回のシリーズの共通の骨子のせいか、人生をどう終わらせるのかといった終活的様相を帯びてしまうが、もとよりそんな気持ちで書いてはいない。

ただ年代に関わらず、人生をどう生きたらいいのかというテーマは常に持ち続けていたい課題であろう。特に家をつくるという行為は、こうした思いを深めてくれるようだ。

家づくりの最大の良さの一つは、自分や家族、そして生活を見つめ直せる事にあるのかもしれない。

本格的な注文住宅の場合、その注意事項は、いくつもあるが、「あの時こうしていたら」住んでからそんな思いにかられるような家づくりは避けてほしい。

自分や家族そして生活などを、きちっと見つめて家づくりが進められていれば、そうした危険性はかなり避けられるであろう。

しかし一方で、家づくりから少し離れて、人生の流れの中で見てみると、「あの時こうしていたら」という気持ちにかられるのは人の常であろう。

「あの時」は取り戻せないし再び来ないのだから、そんな気持ちになってしまうと重く辛い感情が沸くのも人情か。

その辛く重い感情に留まってしまうと人は生きられない。精神が普通ではなくなるかもしれない。様々な事、不条理な事、辛いことが起こるのは、誰しも避けては通れない。それが人生なのだろう。

「時間の流れ」はありがたい。そうした苦しい思いも洗い流してくれる。苦しいさなかには、なかなか思えないが気持ちが落ち着くと、人生は必要な事が起きているだけなのかもしれないと思える。

やはり終活みたいになっているが、人生最後まで逃げずに自分をしっかりと見つめて生きていくことが必要なのだろう。

長く生きてきた分、多少は心も成長していると信じて、起きていることに「良い悪いはない、必要な事が起きているだけ」と達観できれば、心も少しは穏やかになるだろう。

人間関係は身近になるほど、血が濃くなるほど難しい面もある。上手くいっている時はいいがこじれると厄介さもかなりのものだろう。

人生後半は仕事から家族に回帰してくる。それだけに心のトレーニングをしておかないと問題発生となる危険性は高い。それも必要な事が起こっているだけなのだろうか。


シリーズ 最期に暮らす、とっておきの家 

 

一人を恐れない人はボケないようだ

 

「人間、生まれてくる時と死ぬ時は一人」

「人は一人では生きられない」

「人は孤独である」

いずれも日常的によく聞く言葉であるが、ある時は納得し、ある時は納得できない言葉でもある。真実は何かと追及していけば訳が分からなくなるが、その時々の心理的状況を鑑みればいずれも当てはまる要素の多い言葉だと思う。

2025年問題で一番恐れるべきは、やはり認知症だろう。団塊の世代という突出した人数が、いっせいに75才を超えてくる、しかも若者の人数は反比例して極めて少ないという人口のアンバランスが引き起こす社会問題は底知れない恐ろしさを秘めている。

私も団塊の世代の一人である。この世代に生まれてきた一員としての責務のようなものを昔から感じてきた。

他の人に極力迷惑をかけないで一生を生き切るにはどうしたらいいかという事だ。

政治問題や社会問題での対策というとらえ方ではなく、個人でできる最善のことは何か、周りに頼りっきりにならないためにはどうしたらいいのか、という具体的なことだ。

高齢者がいくら増えても、皆、健康で精神的にも身体的にも、そして経済的にも自立できていれば、社会問題にはならないはずだ。もちろん、これは現実的には不可能なことは分かっている。

しかし、少しでも多くの高齢者が、そうであれば社会は助かる。しかも高齢者が元気でいられるようにすることは自己責任でできることが数多くある。自分の健康は自分で守るという単純なことだが、多くの高齢者がそうした生き方を追求していれば2025年問題の解消に相当お役に立てるはずだ。

高齢者が健康でいることは自分のためばかりか子供たちや社会のためでもある。何かと物議をかもしてきた世代であるが、それぞれに有終の美を飾りたいものだ。

その我々世代の最大の課題の一つは、認知症にならないということだろう。認知症の病理学的なこともその対策も大分理解が進んできているようだが、これといった特効薬はいまだないようだ。

何才まで生きるのか、先に行けるのか、残されるのか、そんなことは天のみが知ると割り切り、どうであれ生き切るしかない。

仕事人間が多かった我々世代、自分の健康を保ち認知症にならない努力を最期の仕事と思って頑張りたいものだ。

家づくりと何の関係があるのかまた分からない話になったが、団塊の世代よ健康であれ。


シリーズ 最期に暮らす、とっておきの家 

 

物を捨てられるか

 

人生、最期まで健康でいられる、充実感に満たされている、それなりに生き切った幸福感もある、素晴らしい人生であったと逝けるためにはどうしたらいいか。

そんなことは誰にも分りはしないことだろうが、身軽になることも必要な事かもしれないと感じている。

生きていくために必要なものは意外と少ない。物があふれにあふれた状況に悩んでいる方も多い時代だ。こんな時代に生きているからこそ、シンプルにスッキリした環境で暮らしてみたらいいのではないか。

生きる意欲が人を頑張らせる原動力になっているが、その欲は同時に執着心も呼ぶ。もちろん執着心があってこその人生なのだが、人生後半の執着心は時としてみっともなくもあるし、自分を苦しめる大きな要素でもある。

家づくりも欲との格闘であろう。

お金とやりたいことのギャップ。やりたいことが無限に膨らんでいくような怖さ。やりたいことが本当は何だったのか分からなくなっていく戸惑い。

楽しみにしていた家づくりが苦しみに変化していく、程度の差はあれ、家づくりを経験されている多くの方が体験している心模様かもしれない。

お金や物と真剣に取り組まなければ人生は生きていけないが、心を苦しめる執着心とは無縁でいたい。そんな都合のいいことができるのだろうか。

生きている限り、そんな状況から完全に逃れるのは不可能かもしれないが、少しでも近づきたいと願うならば、まずは物の整理が現実的な方法論の一つであろう。

物は整理しても整理しても、なぜかまた増えていく、たまってしまう。そんな経験はどなたもがしていることかもしれない。

人間の垢と同じで毎日お風呂に入っていても、身体をきれいに洗っていても、必ず垢はたまってしまう。生理現象なので生きている限り仕方のないことであろう。

同様に人が生活をしている限り多かれ少なかれ物はたまっていくのであろう。そうであるならば、毎日のお風呂の習慣と同様、物の整理を生活習慣にしてしまうのがベストのような気がする。

もったいない精神と物を捨てる習慣の両立をはかるという事かもしれない。やたらと物を買ってどんどん捨てる、そんな生活はやはり無軌道な生き方であろう。もったいないという気持ちで物を買い大切に使う、それは当たり前の前提だと思う。それでも尚、物はたまり続け不要な物に変化してしまう。そんな時は思い切って整理するしかない。捨てられる勇気は必要なことだ、その勇気は健康の元の一つであろう。


シリーズ 最期に暮らす、とっておきの家 

 

狭いほうがいい

 

広い家に住みたいと憧れてきた方も多いことであろう。私もそうだ。できたら広い家でゆったりと暮らしたい、とのあこがれを子供のころから持ち続けてきた。それからすでに半世紀以上が経ち、その間、様々な住空間での生活をしてきた。二軒のPAC住宅を含め、古い木造、アパート、マンションなど経験した空間は20カ所余り。その体験は、住宅の生活環境を扱う仕事人生に大きくプラスになったようだ。

今回はそうした自分の体験と、これまで建てさせて頂いた多くのPAC住宅入居者の声も踏まえ、家の広さという観点からお話をしてみたい。

誤解を恐れずに言えば、広すぎる家よりは狭いかなと感じる位の方がむしろいいのかなと最近は思うようになってきた。

もちろん広い狭いは具体的な面積ではなく、その方が感じる、またその方の実際の生活からくる感覚的なものだ。

「広がり空間」これはPAC住宅が最初から提案し続けてきた間取りの考え方だ。「広がり空間」という名前から想像すると大きくて広い家のようなイメージを持たれる方もいるだろうが、「広がり空間」の意味合いは真逆である。

「狭い」を「建築面積が小さい」と置き換えていただくと、その意味合いは分かりやすくなると思う。建築面積が小さくても広々とした生活はできますよ、それを可能にした間取りの技術が「広がり空間」という事だ。

「広がり空間」の具体的な説明は別の資料を参考にしていただくことにして、ここではもっと感覚的に「狭い」ということも悪くはない、むしろ、すっきりとしていいのではないかという事を伝えたい。

今回のテーマの「最期に暮らす、とっておきの家」がもちろん頭にある。その最期の期間が何年か何十年かはわかりようもないだろうが、いずれにしても人生の最終ラウンドをいかに充実させるかという事が前提にある。

多くの方にとってこれまで歩んできた人生は、有り余るほどの物に囲まれてきただろう。この物を心の垢と置き換えると、やはりできるだけきれいにしたいと願う。心の垢は心理的なものもあり、それは具体的に手に取ることのできる形のあるものではない。それだけに扱いは厄介でもあるが、一方、物は具体的な形がある。捨てるという方法論が具体的にとれるということだ。

そして物を持つには場所が必要だ。人間の心は揺れるものだ。物欲もなくなるわけではない。しかしコントロールはできる。そのコントロールを心だけに頼らないで、置く場所すなわち住まいを小さくという考え方も浮かんでくる。狭い家もいいかも知れない。


シリーズ 最期に暮らす、とっておきの家 ⑮

 

食は

 

住いの中で行われるメインな活動の一つは、何といっても「食べる」ことだろう。

PAC住宅は健康住宅のはしりでもあるので、その入居者の方は健康な食生活をされている方が多い。

私自身も30年に亘って健康な食にこだわり実践してきた。その具体的内容については今更珍しい事ではないので、今回は少し見る眼を変えて考えてみたい。

農薬に汚染されていない等、食の安全が確保されている事を前提とすれば、課題はバランスと食べる量そして時間であろう。

改めて考えてみても単純なこととしか思えないが、食を健康という観点から調べてみると実に様々な主張があるようだ。

食べる回数にしても、一日3回、2回、1回とそれぞれに主張がある。個別に条件を付ければどれも成り立ちうるのだろうが、分かるような、分からないような話である。加えて定期的に断食を薦める方もいる。

食が豊かになり食べ過ぎ傾向の方が多いので、どうしてもダイエット的なテーマが主流になってくるのだろう。

そして誰と食べるかも重要なテーマだ。「最期に暮らす、とっておきの家」を念頭に置いて考えると、「孤食」という言葉が浮かんでくる。

夫婦共稼ぎが一般的になって、子供が一人で食事をせざるをえない、その社会現象はよく取り上げられるが、年寄りの一人暮らし、その結果として「孤食」もこれからの世の中の最重要課題であろう。

老人ホームなどの集団的生活を嫌う高齢者も多い。現に我がお袋もそうだ。今年で92才になるが一人暮らしで孤食だ。

年代によって食のテーマは変わる。食をテーマに語ることはそう簡単にはいかない。グルメブームも相変わらずだが、美味い不味いもとても個人差が大きい。誰かが美味しいと言っても私には美味しくはないかも知れない。栄養ですらそうだ。他の人には薬でも私には毒かもしれない。

健康は一般論で語れる要素は多いが、個別に見ていけば途端に一般論が当てはまらないケースも多くなる。食は特にそうだろう。これまでの半世紀を振り返れば、食が豊かになり栄養が行き渡った結果、日本人の平均寿命も延びたが、健康状態は心もとない。現に健康寿命という言葉が盛んに言われるようになってきた。

病床に伏せての長寿より、最期まで健康状態を保てての長生きでありたい。食はそのための大きな要素の一つでもある。もっと個別に食を考える必要がありそうだ。


シリーズ 最期に暮らす、とっておきの家 ⑯

 

運動は

 

自分自身の持って生まれた能力を見ると、最も恵まれていないのが音感と運動神経だ。

音感と運動能力の相関関係を調べた論文もあり、直接の相関関係はないとしているが、それでも否違う、関係はあるという感は免れない。最もそれは単に自分の思い込みなのでどうでもいい話だが。

それでも運動に対するあこがれはあって、中学時代は陸上、高校バスケ、大学ボート、就職してバレーボールとかじってきたが長続きしたためしはない。空手もやりたかったが近視で眼鏡だから無理と決め込んでいた。まぁ、なんとも半端な運動人生である。

そして、決定的なのは入学したての18歳、大学の体育授業で跳馬をやらされ腰をしたたか打った。それが原因で腰椎の一部がつぶれ、以来、定期的に腰が動かなくなった。1年に3回ほどは発症しその都度1週間程度は動けずに寝たきりになる状態が続いた。特に40歳位からがひどかった。

骨が損傷しているので仕方ないとあきらめていたが、それでも腹筋や腕立て伏せなどは継続してきたが、腰には直接の効果は感じられなかった。しかし、振り返ってみるとここ数年は年に一回ほどで済んでいる

とてもうれしい話だ。その効果をもたらせたのは、美木良介さんロングブレスという呼吸法だと思っている。4年ほど前にパートナーがテレビで見て腰に良さそうだと教えてくれたのをきっかけに本などを頼りに見様見真似でやってみた。なぜだかはまって4年近くは続けている。美木良介さん自身の腰痛と痩身に役立ったようだが、痩身はともかく私の腰痛も最近はなくなっている。レントゲンで改めて見る機会があり自分でもぞっとする状態だが、このまま痛みなく普通に最後までいって欲しいと願っている。

そして新たに、週1回パートナーと一緒に加圧トレーニングとAヨガを始めた。まだどちらも1年程度に過ぎないが、トレーナーについてしっかりとやっている。

加圧トレーニングもAヨガもどちらも日本人がつくりだしたオリジナルなもので今では世界で認められているようだ。とても気持ち良く体調もいいので、この先できるだけ続けようとパートナーと話し合っている。

話が自分自身のことに終始してしまったが、今年68才になった私は自分のことも含めて、高齢になってからの運動はとても重要な事と思っている。しかも事情が許すならば、トレーナーのもとで素直な気持ちで続けることは、身体だけでなく心も柔らかく豊かになっていく感じがある。人から教えを乞う事は、何歳になっても必要な事なのかもしれない。年齢を重ねて硬直していく身体と心を柔らかくしていく効果が運動を教わるという事にはありそうだ。

シリーズ 最期に暮らす、とっておきの家 ⑰

 

一般論は当てはまらない

 

今回がシリーズの最終回。「最期に暮らす、とっておきの家」とのタイトルに関わらず家づくりの内容とは程遠い事ばかりを書いてきた感がある。家の中には人の暮らしがある。その暮らしそれも最期に暮らすというタイトルに惹起されたイメージで書いてきたのだろう。

人の生きていく様、死んでいく様、それは本当にいろいろだ。「最期に暮らす」というイメージは、「生きてきたなー」とそれなりに満たされて最期を迎えることか。

人には死んでみなければ分からないことがある、と私は思っている。だからと言って、どうってことのない話だが、そうであれば、あまり思い悩まないで、ひたすら生き切ることができるかもしれない。

人間存在の本質をとらえるなんて構えてしまうと根源の闇に引きずり込まれるかもしれない。生きているのだから、ちゃんと生きようと気楽に構えれば、生かされている事に気づかされ感謝の念も生まれてくるだろう。

人はどうしても比較してしまう癖がある。物を買ったり選んだりする時に比較するのは当たり前だが、自分の人生を他人の人生と比較してしまうと、余りろくなことはない。

人はそれぞれに存在理由があり存在価値がある。そしてそれは各人それぞれに違うはずだ。それは何なのかと追及しても無駄だろう。正に「神のみぞ知る」領域であろう。

生きるという事に一般論は当てはまらない。普通はないということだろう。皆それぞれが特殊な存在なのだ。

特殊というと何かかけ離れた様子が連想されるが、よく考えると我々一人一人が人間として生まれ生き死んでいく事それ自体がかなり特殊な事なのだろう。毎日の事なので感じなくはなっているが、たまにはこうして思い起こしてみると感謝の気持ちも新たになり、生きる勇気もフレッシュになる。

最期に家づくりの話に戻ろう。PAC住宅を世に問うてから40年にならんとしている。

PAC住宅」の最大の特徴は、自然に素直に対応する事。

夏は暑い、それでも涼しい時間帯もある、その涼しさをいただこう。冬は寒い、でも太陽は暖かい、ではその暖かさをいただこう。日本は湿気が多い、しかし風も太陽も湿気を飛ばす効果を持っている、その力を上手に使おう。

人は寂しがり屋、でも一人にもなりたい、それに対応した間取りが「広がり空間」。

そんな当たり前のことを「素直」に組み立ててきたシステムだ。「素直」とは、家のつくり方すなわち設計や施工方法、材料の使い方でやろうということだ。基本に素直な家だと思っているが、いまだ一般論にはなっていない。