ブラックエンジェル 彼の母
彼はよく母親の話をしていた。帽子の似合う、しっかりした女性の設定。うそで固めた人生を送っていた彼にとってもそれこそうそでなく、母親は愛すべき存在だったようだ。
母親の話の中では自分はだめ人間であって、あんなふうに叱られたとか、とても厳しく育てられたとか、本来の自分の姿を重ねていた。
母親の住むエリアには所有不動産もいくつかあって、アパートも経営しているとのことだった。
車でここがそうだ、あそこがそうだと、すべて人の土地を平気で案内し、挙句の果てに展示場を建ててはどうかまで持ち出した。
アパートの話についてはまたすごい事件が起こった。スタッフのひとりがそのアパートに引っ越すという話になり、実際に荷物を送ってしまった。
もちろん母親の経営するアパートなどあるはずもなく、荷物は宙に浮いてしまった。こんなときでも全くあわてない。母親が受け入れを拒否し、引越し便を返したためにおこったことと説明した。
何故拒否したかについてもまことにさもありなんという理由をつけて関係者一同説得させられてしまった。
しかし、当の本人は納得できるはずもなく、実際に母親に会いにいった。このときばかりは母親の所在地をごまかすことができず、そのスタッフは母親と話ができた。
物静かなお母さんで、ごめんなさいね、あの子は嘘つきなんですと話してくれたそうだ。
それでもなお彼の正体に気づけないほど、こころの中に棲みついていたということなのか、すでにいくつかおかしなことが重なって、気づきつつある自分の意識にふたをしていたということなのか。
ふっくら丸顔の小さな目、口をとんがらせて懸命に話す彼の表情に悪意は感じられない。聞いている人間から噴出してしまわんばかりの笑いをとるためのシナリオを自作自演する。まわりで笑ったり、びっくりしたりすればするほど彼のボルテージは上がる。
そしていつしか彼のペースに巻き込まれている。きっと母親の前でだけは彼にとって自分でない自分であったのかも知れない。(2008.5)
