「仮面夫婦が仲良く暮らす家」1

仮面夫婦って?

仮面夫婦が仲良く暮らす家。この言葉自体が矛盾している様なしていない様な、 なんだかよくわからない感じがする。

あっそうか、これまで仮面夫婦なんてことをよく考えたことがなかったからな。

それならば改めて考えてみよう。仮面夫婦ってどんな夫婦なのだろう。

ばか臭いと思いながらもネット検索してみた。

出るはでるは、ざっと眺めるかぎり何か当たり前のことが書いてありそうだ。お互いに気持ちは冷めたのに世間体や子供の手前外面は仲のいい夫婦を装っているとか、有名芸能人が長年の仮面夫婦を解消して離婚などの話や、なぜ仮面夫婦になるのか、なりやすいタイプはこんなだとか、ご丁寧な解説やら、ならないための方法論までもがずらりっと並んでいる。

なぜだか読む気にはならない。

週刊誌の話題や芸能レポート的意味合いであればそんな感じでいいのだろうが、人生やそれに付随する家づくりなどを根底に据えるとどうも浅すぎる。

人間という存在は意外と厄介だ。

思っていることとやっていることが違うし、そもそも思っていることが心底から思っていることなのか、とりあえず思っていることなのか、何となく思っていることなのか、自分でも良く分かっていないことが多い。

しかも感情と思考なるもの違う。思っていることと感じていることは、そのこと自体が同じことなのか、違うことなのか、分かるような、分からないような。

 

仮面という言葉は仮面を外した姿が連想される。

本当という自分があり、それをさらけ出さないために仮面をするというイメージか。

仮面を外した本当という自分は何なのか。

その自分も何らかの仮面はかぶっていないのか。

どうしても玉ねぎを思い起こす。仮面をいくら脱いでも、本当の自分はいない、最後には何もなくなる。

多くの皮の固まりが玉ねぎであるように、無数の仮面の塊が人間という存在なのではないか。

そう感じてしまう。

そうであれば仮面夫婦という言葉に伴うマイナスイメージはなくなる。

仮面で当たり前、いい夫婦や、人間関係は、仮面の良し悪し、仮面の被り方の上手下手で決まるのではないか、そんな気がしてきた。

 



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仮面夫婦は理想の姿かも

仮面夫婦に伴うマイナスイメージを取り払うと、意外な感じが出てきた。夫婦の理想形は仮面夫婦なのかもしれないと。

これは何も夫婦に限ったことでなく全ての人間関係に当てはまりそうだが、ここでは夫婦というテーマに絞りたい。

夫婦は人類が絶滅しないためのユニットだ。大変な役割を担っているわけだが、ここではもう少し気楽に考えていきたい。

二人の男女が縁あって一緒に暮らしている、それを夫婦としよう。

自分とは異なる人間が大切なパートナーとして共に生活をしているわけだ。人は自分のことを理解して欲しい、分かって欲しいという本能がありそうだ。となれば当然それを最も期待するのがパートナーに対してということになるだろう。

出会ったばかりの時期、恋愛中、熱々の時期は、半分以上目くらまし状態になっているから、お互いに分かっている、理解されているという気分になっているが、それは錯覚に過ぎない。

時間が経てば、「あばたもえくぼ」が「えくぼもあばた」と逆になる。それはほとんどの夫婦が経験していることだろう。

この時間の経過という魔物には抗しがたい。輝くものは色あせる。珍しいものが普通になる。新しいものも古くなる。存在するものは普通になる。

 

私の子供の時代は、道徳という授業があった。その内容はとっくのとうに忘れさり跡形もないが、一つだけ残っていることがある。

それは「人間には悪い心と良い心が同時にある。立派な人になるには、悪い心に打ち勝って、いつも良い心でいなさい。」こんな感じのことだ。

これは子供心にも分かったような感じがした。そして良い心でいると何か自然に心地良かった感じがしたことを何となく覚えている。

非常に単純な話だが、意外と人の心はこんなものかもしれない。良い人という本当の自分が芯にあるわけでもなく、悪い人という自分が芯にあるわけでもないだろう。

良いも悪いも玉ねぎの皮一枚に過ぎないのかもしれない。玉ねぎの皮は、人間でいえば仮面だ。

玉ねぎの皮をむき切れば何もない。人の仮面を脱ぎ切れば、やはり何もない。かっこよく言えば「無」だ。それはもはや人間の領域にはない。神仏の世界だ。

そうであれば、良い人という仮面を上手につけているほうが人生意外といいのではないか。仮面夫婦をそういう観点から見つめなおせば意味合いが違ってきそうだ。

 



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仮面夫婦、良いも悪いも仮面次第

仮面夫婦という言葉を世間の常識とは違った角度で見てみると人生の奥深さすら感じてくる。

人は無数の仮面の集合体とみると本当の自分たるものは元々存在しない。遺伝子、環境、教育などで人によって持っている仮面の傾向はあるのだろうが、それでもほとんどの種類の仮面を潜在させているのかもしれない。

単純に言ってしまえば、良い人の仮面、悪い人の仮面、怒りっぽい仮面、気長な仮面、怖い仮面、優しい仮面、頑固な仮面、物わかりのいい仮面、雑な仮面、丁寧な仮面、良い面を見ようとする仮面、悪い面を見ようとする仮面・・・ときりがない。

夫婦が出会ったころはお互いの良い面を見ようとする何か力が働いているのだろう、恋は盲目ということか。

時間が経過して落ち着いてくると、良い面ばかりではなく、元々あった悪い面や嫌な面も見えてくる、こんなはずではなかったとなるか、それはそれで面白いと感じるかでずいぶんと生き方は違ってくるだろう。

仮面は誰のために被るのか、何のために被るのか。そんな単純な疑問にすら答えるのは結構難しい。

小学生の時に習った道徳のテーマ「人間には悪い心と良い心が同時にある。立派な人になるには、悪い心に打ち勝って、いつも良い心でいなさい。」

大人になって嫌々被る良い人仮面は偽善的で気持ち悪そうだが、素直な気持ちで被った良い人仮面は、自分自身の心をとても暖かくしてくれた記憶がある。

人間には成長欲というか成長に喜びを感じられるチャンネルもある。長い夫婦生活の上では実にいろいろなことがあるだろう。

その時々でそれぞれがつけている仮面も違うだろう。どんな仮面にしろ、これが本当の自分というものがないとしたら、その仮面は所詮一時のものだ。

感情のもつれで何か嫌な仮面を被りたくなった時、「人間には悪い心と良い心が同時にある。立派な人になるには、悪い心に打ち勝って、いつも良い心でいなさい。」と小学生時代に教わった超単純な道徳に素直な心で応じられたならば、暖かい気持ちに包まれ最悪な局面も意外といい場面に変わり喜びの気持ちに包まれてくるかもしれない。

それができた時、成長の喜びも訪れている。

良い人仮面は、人によって違うだろうし、その時々で異なるだろう。

どうせ我々人間は仮面を被っている存在ならば、上手に良い人仮面を使えればいいのではないだろうか。

仮面夫婦という言葉からそんな連想が生まれてきた

 



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仮面夫婦が家づくり

長年家づくりに携わってきたおかげで随分とたくさんのご夫婦を見させていただいた。もちろん家づくりをしようとする位なのだから、基本的には仲がいいはずだ。あるいはこれからも共に一緒に暮らしていこうと思ってのことだ。

多くのご夫婦とお会いしてきたが、時代時代で自分の中に正反対の気持ちが生まれていたことを思い出す。

それは、「仲の良い夫婦が多いな。」と感じる時期と、「ほとんどの夫婦は仲が悪いのだな。」と感じる時期になぜか分かれた。

どうしてなのかあまり深く考えずに、そんなもんかとここまで来てしまったが、改めて考えてみたい。

そう感じさせられる要素は一つではないだろうが、最も大きな要素は自分の心その時々の葛藤の表れかもしれないと今にして思っている。

人はそれぞれに自分という中心の核を持っている。そしてこの自分は結構わがままだ。自分を理解して欲しい、分かって欲しいとの本能がある。それに気が短い。日常のちょっとした行為や会話で、不快になったり、言い争いになったりもする。

心の持ち方やあり方を多少は勉強してきたり年齢を重ねてきたりすると、一見人間が出来てきて気も長くなるように周りからは見えるようだが、どうも実際はそうでもないように思える。

若い頃は心のままに思った事をすぐに口に出したり怒ったりしてきたが、年齢を重ねるとともに口にはすぐに出すことはなくなった。しかしそれは人間が出来てきたとか思慮深くなってきたということではないだろう。

不快なことを口にしたり怒ったりすると、最も不快になり嫌な気分になるのは自分自身でもある。言われた相手も不快になり言った本人も不快になる。そういう面倒くさいことをやるだけのエネルギーがなくなってきているのかもしれない。

なんだか話がずれてきたような感じもするが、まぁいいか。

夫婦で家づくり、それは熱心にやる程、二人の心を見つめさせることにもなる。それは良いことでもあるが、一方でこんなはずではなかったという事につながることも少なくはない。

最近強く感じることを極端に言えば、人間の心には正反対のことが存在していて、その時々の心の向け方、スポットの当て方で感じ方が大きく変わるのかもしれない。

仮面は、その心の向け方、スポットの当て方の事を言っているのかもしれないとも思う。

家づくりは、大きなお金を使う、それだけに真剣にもなれる。その真剣さは自分の心を改めて見直すチャンスにもなる。

新しい家の生活で、いい仮面を上手に育てていくのもいいかもしれない。



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いい温熱環境はいい仮面を育てる

人間の心は強くもあり弱くもある。良い心の持ち方を支える大きな役割を担うものに、住まいの環境もあると信じている。

長年、健康住宅を仕事としてきたが、改めて仮面というテーマで見直してみたい。

人間の心は強くなれば限りなく強い。心頭滅却すれば火もまた涼し、そんな極限状態にも耐えられる。しかし住まいの環境は、そんな極限状態を想定しているわけではないし、その必要もない。

毎日を普通に生き暮らしていく空間が住まいだ。

普通の人間は身体の調子がいいと気分もいいものだ。一般的には身体が健康であればこころの健康も保たれやすい。もちろん逆も真なりで、こころが健康で強ければ、たとえ身体の調子が悪くても大丈夫な人も少なくはないし、こころで身体を健全にしてしまうスーパーマンもいる。

しかし普通の人は、なかなかそうはいかない。

身体が気持ちよく体調がよければ、気分もよくこころにもゆとりができてくることの方が遥かに多いと思える。

そうした意味で毎日を過ごす住まいの環境は極めて重要なことになる。

シックハウスではこころを明るく元気に保つということは困難であろう。シックハウスは論外として、住まいの温熱環境もそうした意味では無視できることではない。

暖かい涼しい。温度差。湿気。結露などの温熱環境のバランスにいい家が求められる所以だ。

冬、リビングは暖房であつい位、ドアを開けた廊下は冷たい、北側の部屋はもっとヒヤッとする。洗面やトイレは湿っぽい。窓は結露でビチャビチャ。カビもそこかしこに見られる。床下はかび臭くて気持ち悪い。天井裏を覗いたら屋根の裏側が黒ずんで腐っている。

こんな建物や住まいは決して珍しくはない。

また夏、二階はとてつもなく暑い。一階もクーラーなしでは暮らせない。クーラーをつけると冷えすぎたり、その風が直接身体に当たったり不快でならない。

こうした住まいや環境では、なかなか身体の状態を気持ちよく保つことは難しい。ついつい気持ちも落ち込みやすくなる。気持ちは何とか平静を装うっても身体は正直だ。体調不良になりがちだ。

こんな劣悪ともいえる住まいでは、夫婦の関係、会話もちょっとした行き違いやぶつかり合いで爆発しかねない。

体調がよく気分がよければ、さらりと流せることも流せず不必要なぶつかり合いになることは決して珍しくはない。住まいの温熱環境を軽視してはいけない。



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間取りと仮面と変身

今度は間取りの観点から夫婦のあり方を考えてみよう。

繰り返しになるが、仮面夫婦という言葉を決して悪いだけのイメージで使っているわけではない。

夫婦生活も長くなると自然と距離が離れてしまったかの感じにもなる。しかし、それは決して距離が遠くなっているのではなく慣れてしまい自然体になり会話が少なくなってしまった、という事の方が実際には多いだろう。決定的破局を迎えているというケースは少数と思われる。

こういうことを前提に家づくりを考えると、間取りは相当に重要なファクターになるだろう。

良好な人間関係が継続していく、そうした前提はやはり、顔を合わせて会話をしていくという当たり前のことが前提となる。

しかし夫婦が同じ家の中で、わざわざ約束をして顔を合わせ、話をするなんてことは不自然だし、だいたいありえない事だ。そんな日常風景は自然発生的なものだ。

ところがこの普通の事が阻害されやすい間取りがある。

すれ違いが多くなる間取り。その結果会話も少なくなってしまう、そんな家がある。特殊なことだと思われる方も多いかもしれないが、案外普通にありえることだ。

何のことは無い、ごく普通の何LDKという間取りにその危険性が一杯潜んでいる。

働き盛りの夫婦で共稼ぎ。現代では普通のことだ。

こんな夫婦の場合、住まいの状況と仕事や生活の状況がかみ合わない場合は、顔をまったく合わせないで時間が過ぎていくことは珍しいことではないだろう。

帰宅時間が違う、食事はそれぞれが外食という事情が続き、住まいも夫婦別室、しかも玄関から個室に中廊下を通じてストレートにいけるという典型的なLDK間取りであれば、ちょっとした気の使い方、努力なしではすれ違いになりっぱなしという事になりかねないだろう。

そんな生活が長く続くことは不自然だし、ちょっとした行き違いや、感情の不安定な時期などと重なれば、望んではいない危機的状況も生まれかねない。

そんな状況下でも、嫌でも顔を合わさざるを得ない家であれば、何とはなしに会話は生まれるし、お互いの大変さも実感され思いやりも生まれる可能性は高い。

なんといっても元々は好きで一緒になった二人だ。お互いの良い面が出てくる。すれ違いで終わるのとは大違いだと思う。

夫婦関係において「見ざる・聞かざる・言わざる」は最悪だ。例え会話は少なくても、「見える・聞こえる・感じる」空間にともに暮らしていれば、いらざる誤解は生じにくく、お互いを理解できる。そんな間取りを考えてみたい。



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「見える・聞こえる・感じる」間取り

「見える・聞こえる・感じる」空間、これは文字通りの意味合いである。

家に入ったら、家人の姿が見える、声が聞こえる、仮に姿が見えなくてもその雰囲気が感じられる、そんな空間、間取りのことだ。

家人の存在を真っ先に気づく、そんな意味合いである。

家人はなんと言っても人生で最も大切な人である。毎日、愛していると言って暮らすのは日本人には余り向いていない。言わなくても分かり合えるというのが日本人の伝統だ。しかし、実際には黙っているだけでは分かり合えるはずも無く、やがて遠のいてしまうだろう。言わなくても分っているだろうという会話は逃げ口上だ。

思い出して欲しい。あるいは想像して欲しい。

六畳一間のアパート暮らし。

多くの方にとって今ではできそうも無い生活だろうし狭すぎてたまらないが、ずばり嫌でも「見える・聞こえる・感じる」空間ではある。

仮に3040坪の家を建てるとしても、間取りを考える上でのヒントは六畳一間のアパート暮らし。

まずは一般的LDK間取りと逆さに考えてみるといいだろう。具体的な間取りではないが基本的な考え方を示す。

 

まず玄関。玄関に入ればリビングが見える。

リビングにはキッチンが隣接し視線が通る。

和室が必要ならばやはりリビングにつながっている。

階段もリビングにある。

吹き抜けもリビングにある、場合によっては階段と一緒になっている。

二階寝室は吹き抜け側にも窓がある。

複数の子供部屋は個室にもなり大きくつなげることもできる。

ロフトは吹き抜けの上にある。

 

もちろんこれはイメージである。しかし結構現実的にもこのイメージにそって間取りがつくられている家はPACには多い。

それは家人とつながりを大切にする意味合いでもあるが、PAC住宅であれば自然のエネルギー等で家全体を冬でも夏でも均一なそして快適な温熱環境に整える機能があるからに他ならないからだ。

「見える・聞こえる・感じる」空間を実現するには、温度や湿度的にも居心地の良い家が求められる。それを前提にその間取りの意味合いを見てみよう。



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「見える・聞こえる・感じる」空間の実際的意味合い

「見える・聞こえる・感じる」空間の原則を前回述べた。まずそれを整理してみよう。次の8つの原則にまとめられる。

 

1. 玄関に入ればリビングが見える。

2. リビングにはキッチンが隣接し視線が通る。

3. 和室が必要ならばやはりリビングにつながっている。

4. 階段もリビングにある。

5. 吹き抜けもリビングにある、場合によっては階段と一緒になっている。

6. 二階寝室は吹き抜け側にも窓がある。

7. 複数の子供部屋は個室にもなり大きくつなげることもできる。

8. ロフトは吹き抜けの上にある。

 

必ずしもこの通り間取りをつくって欲しいといっているのではない。あくまでも間取りを考える上でのヒントにして欲しいだけだ。

この8つのヒントに共通しているのは、もうお分かりでしょうが、家族のふれあいだ。それも意識したふれあいではなく「さりげないふれあい」だ。

家族が家にいる限り、何となくその存在が分かり合える間取りを考えるとこんな感じになった。

夫婦から家族全体にテーマが広がってしまった感がある。もう一度夫婦に戻して、夫婦の寝室のあり方を考えてみよう。

もう何十年も前から、夫婦の寝室は別室も悪くはないと提案しているが、それは今では普通の考え方の一つになっているようだ。

家庭内別居という別室もあるだろうが、実際には仲の良い夫婦が別室にしている例も少なくはなさそうだ。

また同室にしても、ただベッドを二つ並べるというだけではなく、ベッドの間上半分位まで簡単な仕切り壁を立て読書用のライトを付けるなどの工夫も悪くはない。

 

最終的には間取りの問題ではないだろうが、一つ屋根の下で暮らしている夫婦の最大の課題は時間であろう。

12年なら良いだろうが1020年・・50年もと考えると気の遠くなる方もいるだろうが、それが多くの現実である。

であれば一緒に暮らして、良い時も悪いときも普通のときも「見える・聞こえる・感じる」空間はお互いを成長させてくれるかもしれない。



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家も間取りも関係ない

夫婦のあり方あるいは家族のあり方と家や間取りとの関係を長く追及してきたが、もう一つの本音は、人間の関係はそれを超えるということだ。

人間は心と身体そして魂の複合的存在である。魂は別として心と身体と家と言う器の関係の重要性を説きその理想の具現化の一つとしてPAC住宅を提案してきているが、状況によっては、そんなのは関係ないと思っている。

間取りや家の温熱環境などに振り回されない夫婦関係や家族のあり方が最も重要で大切なことだと言う事だ。

信頼できる人・愛する人と暮らす、もちろん大きな波風は当然にあるだろう、そうしたことを乗り越え、成長し合える関係であれば、実は住まいのあり方などとても小さな問題なのだろう。

仮面夫婦をテーマとしてきたが、人間は所詮自分の心すらなかなか分らない、その状況を仮面ととらえれば、すべての人は仮面の存在だ。仮面が良いだの悪いだのの話ではないだろう。

自分の心さえ良く分らないということは情けないことではなく、相手への思いやりにつながるとても重要な要素だと思う。

自分の本当の心が分らない、それは自分ばかりではなく相手も同じことだということだ。これは夫婦の関係では特に重要だ。

夫婦は最も近い関係である、それだけにちょっとした事で感情的にもなる。行き違いにもなる。近しいだけにカッとなり言わなくていいことまでつい口にしてしまうことも珍しくはない。

人間は目先で振り回される。夫婦喧嘩しているときなど相手の悪いところが次々と思い起こされ、本当にこのまま関係を続けていていいのかと先走った思いまでもが浮かぶことも意外とある。相手の言葉にもそんな思いが感じられる。

夫婦喧嘩の度に程度の差はあれこうしたことを感じている夫婦も多いことだろう。でも自分も含めて二人の心はどこにあるのか。決して口に出したことが本音ではないはずだ。

言葉で自分の心が振り回されているだけだ。瞬間的にちょっと危ない仮面をかぶらされているだけだろう。

そんな時、どちらか一人が一歩引いて、思いやり仮面やニコニコ仮面、やさしさ仮面などをたとえ我慢してでも付ける事ができれば、また事態は良い方向に変わっていくだろう。

そしてそんな時の心の中は意外に爽やかだと思う。我慢して付けた思いやり仮面が、相手の心ばかりか自分自身の心までも軽くし、その良い面を育ててくれている。朝起きて明るくおはようと言えば爽やかなのと同じだ。人の心は意外に単純だ。



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かすがい 漢字で書けば鎹

今回は雑談。

子は鎹(かすがい)。鎹という漢字はあまり馴染みがないが良く見ると奥深い。金偏に送る。金を送る。金を届けるという意味か。金の切れ目が縁の切れ目。これは多くの場合真実になる。

ということは、子供は金ということか。もっと重要だろう。

それはさておき、鎹は建築的にも重要だ。木材と木材をつなぎとめるために打ち込む両端の曲がった大釘でコの字をしている。元々はこの釘から、夫婦の仲をつなぎとめる役割の子供を鎹と称したのであろう。

確かに子供が成長するまで離婚を我慢したという話は数多くある。

離婚などいまどき珍しくも無い当たり前の話で、離婚した方がいい場合もたくさんある。

かくいう私も離婚1回、死別1回。今は新しいパートナーといい意味で格闘しながら暮らしている。もちろん肉体的な格闘ではない、心の格闘だ。

そうした経験からも、若いころの鎹では子供という要素は大きい。

子供が鎹の要素を果たし終えた後は、難しい夫婦も多いことだろう。子供がいなければ離婚していただろ夫婦が表向き結婚生活を続けている、世間ではこれを仮面夫婦という。この単語の使い方が一般的であろうが、今回のシリーズではもう少し幅を広げて仮面の意味を深めてきた。仮面は人間として当り前、上手につければ幸せにもなるという意味合いを大きくしてきた。

かすがい、仮面、そして深い関係。

人間同士がある程度理解しあえるまでは時間が必要だ。若い恋愛では瞬間に分っているような気分になるが実際にはそうではない。恋愛が結婚に発展した夫婦が理解しあっていなかったと思うことは普通のことだ。

浮いている気持ちが落ち着いて普通になっていく、それでも仲が良い。いやますます良くなっていく夫婦も多い。

それなりの時間がかかっているだろ、その間、大きな波風があったに相違ない。だからこそ理解が進みより仲良くなってきたともいえる。

そう考えると、鎹の役割は大きい。

子供であり、我が家で言えば犬という子供だ、ペットだ。

そしてやはり間取りに戻ってくる。

同じ空間を共にするパートナーの姿がいつでも見える。話がすぐに届く。感情の状態がすぐに感じられる。

そんな「見える・聞こえる・感じる」空間に身体を置いている生活がパートナーとのより深い理解やお互いの信頼感・愛情を深めているのだろう。  雑談でした。



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結局は距離感か

また雑談。

踏み込まない・受け入れる。

この言葉の意味は大きい。真剣に生きる夫婦のバイブル的要素の一つを示している。

人間は自分の心さえ所詮は知ることができない。常に仮面を付けている状態だ。だからこそ上手なそして幸せになれる仮面のつけ方があるのではないかと思いこのシリーズを書いている。

自分に本当の真実の心があると考えるとどうしても知りたくなる、突き詰めたくなる。そしてどんどん自分の心の中に踏み込んでいく。しかし何か確信できるわけではない。やはりたまねぎの皮だ。むいてもムイテモ剥いても、だ。

最近思うことだが、人には傾向がある。

考え方の傾向がある。感情の傾向がある。好みの傾向がある。信じる傾向がある。趣味の傾向がある。いろいろな多くの傾向がある。

この傾向がマッチングすれば一緒に暮らしていける関係にもなる。

この傾向は生まれ持ったものもある。後からのものもある。たぶんその多くは死ぬまで持っていくものかもしれない。

自分の傾向はなんとなく分るし、相手の傾向もそれなりには分る。ある程度長く一緒に生きてくれば、ますます傾向の理解度も進む。

でもそこまでに留めておいた方がいい。

真実の自分、本当の自分が分らないように、相手の真実・本当を求めてはいけない。お互いに、そんなものはないのだろう。

それだからこそ、言葉に真実・本当を求めてはいけない。日常発せられる言葉はもっともっと気軽なものだ。そんな気軽な言葉だからこそ日常生活が成り立っているといえる。楽しさもそこに見つけられる。

それなのにちょっとかみ合わない時や感情的にちぐはぐな時の会話では、つい突っこんでしまいがちだ。そんな時こそ、少し待て仮面、ちょっと我慢仮面を付けよう。

要は不必要に踏み込まないことだ。

ではそんな時何をするか。

「受け入れる」ことだ。そのまま受け入れることだ。言葉を変えれば感情的な会話を交わさないことだ。感情的にならずに一度相手の言ったことをそのまま受け入れれば、すべてが変わる。

基本的にお互いに思いあっている関係であれば、受け入れさえすればすべてが良くなる。自分が受け入れられれば、相手もやがてあるいは思いのほか早く自分を受け入れている。そんな気持ち良い経験は誰しもしている、その爽やかさを思い出そう。



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時には別れも

またよけいな話を。

生涯を仲良く夫婦で暮らしていく。きれいな言葉だが、現実は中々そういうわけにはいかない。人間は贅沢なもので、ないものねだりという魔物が心の奥に鎮座している。この魔物は現状に満足しない。常に何か新しい物を望んでいる。

この魔物を上手にコントロールできれば、いい意味での成長欲につながり自己の高まりや人類の発展にもつながったりする。

しかし魔物に振り回されると、コントロールしがたい自分の欲望にいつしか人生を台無しにされることも多い。よく見聞する例としては、際限の無い金銭欲、どこまでいっても満たされない権力欲、そして性欲奴隷。

金さえ儲けられれば手段は選ばない。とにかく偉いといわれる椅子に座りたい。女を次から次へと替えたいし増やしたい。情報をテレビにまで広げれば毎日繰り返されているテーマだろう。

そしてそのテーマには必ずといっていいほど、失ってみて有難さがわかった。という話が伴う。普通であるということがいかに有難いか、去っていった家族がどれほど大切だったか、そんな後悔話は枚挙に暇が無い。

話がずいぶんと広がった感があるが、テーマである夫婦に戻そう。

パートナーは毎日生活を共にするが故に、実に様々な経験をさせられる。

一方、その存在が当り前と感じてしまうとお互い鈍感になり、意識しなくなる、意識されなくなる。空気のような存在とはよく言われるが、これはいい意味なのか悪い意味なのか、多分どちらもあるのだろ。

「時には別れを」

そんな瞬間があった夫婦の方が、結果としてうまくいっているのではないだろうか。この場合の別れは、現実の離婚ということではない。その手前の話だ。

別れたいという心と真剣に向き合う。住まいの空間を別にする。顔を突き合せない時間を増やす。その具体的方法は何でもいいと思う。

このパートナーがいなかったらという疑似体験のことだ。

様々の思いが浮かぶだろう。

いなくてすっきり。いないと寂しい。適度な距離がいい。お金はどうする。子供が小さければもっと要素は複雑になる。思いは一つではないだろう。

結局は別れなかった。「時には別れを」はいろいろな経験を経てより距離が近づいた、仲良くなったことを想定しての言葉だ。

場合によっては、本当に別れた方が良い場合も少なくはないだろう。

夫婦関係に役立つ家づくり。そんなテーマがいかに大きいか重いかを感じる。



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夫婦の努力の仕方

今度はおせっかいな話だろう。

他人の懐具合と男女の関係は外からは分らない。

きっとそうだろう、真実に違いないとは思いつつ、夫婦の関係を長期間より良く育てていく、そんな努力の方法論があるのかもしれない、それにあった住まいのあり方もあるのだろう、なんて事を考えてみたい。

夫婦といっても、若い組み合わせ、中年、熟年と世代も広がり、またそれぞれの体験もまるで違う。性格も人間性も多様性に富む。

共通なのは人間であるという点だけかもしれない。こんなテーマは元来無謀な試みでありつまらない話なのだろう。

豆腐の角に頭をぶつけて死でしまえ、うどんで首吊って死ね、そんな話になってしまうだろうが、興味を多少なりとも感じられた方は著者の独り言としてお読みくださればうれしい限りだ。

具体的にこんな方法がいいとか、こんな方法があるということではない。

年齢や体験も関係ないかもしれない。

 

夫婦になったということは、個人の感覚でいえば

「この人といる、この人と生きる、この人と暮らす」ということだろう。

それも当初の思いは

「この人と長く、ずーっといる・生きていく・暮らしていく」という感覚か。

おそらく日常ではこんなことは考えないし、思いもしないだろう。何かのきっかけで、ふと頭をよぎる程度だ。

そして

「どうしてこの人といるのか」

と思う瞬間もある。

これは永遠のテーマである

「人はなぜ生きるのか、何のために生きているのか」

という答えのでないテーマのようにも思える。

 

きっとそうなのかも知れない。そうなのだろう。

「生きているから生きている。であればちゃんと生きる。ではどうするか。」

「この人と出会った。一緒にいる。であれば仲良く暮らそう。ではどうするか。」

そんな原点に時々戻れば、新鮮な気持ちが蘇るかもしれない。

それは結構楽しいことなのだと思う。そういう思いで暮らせる家づくりをしたい



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人は所詮自己中心

このテーマ最期の話にしたい。

人間は自己中心。一般論としては受け入れやすいが、意外に自分はさほどでもない、思いやりもあると思っていたりする、それも人間であろう。

ここは思い切って、私は自分中心、自分勝手、自己の満足を軸に生きていると割り切ってみたらいいのだろうと感じている。

自分のため、その中身を少し見直せば何かが見えてくる。

ここでのテーマは夫婦。

毎日の生活の中で苦手なことや、やりたくないことはたくさんある。

しかし、そのやりたくないことをすることで相手が喜んだり感謝してくれたりすることもある。

たいした事を言っているのではない。

例えば、私は男なので普通に言えば、毎日の掃除や洗濯、料理や買い物などは得意ではない。苦手で嫌いなものもある。

しかし夫婦は対等、協力し合って生きたいという思いもある。さりとて苦手なことや好きでもないことを嫌々やることもしたくはない。

こんな毎日のささやかな事を、気持ちよく乗り越える心の持ちようがあるのではないか、そんなテーマを持ち続けてきた。

もちろん人によって異なると思うので、これは私自身のこと一般論ではない。

私の心の中にある欲望で、大きな要素を占めているのが成長欲。

若いころから、自分自身の人間の出来具合は「死の直前が最高」でありたいと願っている。年齢を重ねたから衰えるのではなく、わずかでもいいから成長しつづけて生きたいという思いだ。もちろん肉体は無理なので、心の要素である。

この成長欲を上手に使えばいいかなと気づいた。私は、自分の心が成長していくことはうれしく感じる、これだ、この気持ちを利用すれば少しはましな人間になれるかもしれないと思った。

相手のために生きる、相手が喜ぶことがうれしい。それは崇高なことだろうが、いつもそんな気持ちを持ち続けることは私にはできない。無理やり持っても偽善にしかすぎない。そんな気持ちはストレスになる。ではどうすれば、自分が気持ちいいか。

それは 「自分のできなかった事や苦手な事が、少しずつでもできるようになっていく、それに喜びを感じる」 そんなもう一人の自分がいることに気づいた。

後は簡単だ。苦手だった掃除が丁寧に上手にできる自分を喜ぶ自分がそこにはいた。自分がうれしいことが相手の喜びにつながる一瞬であった。

苦手な事が、まだたくさんあることに感謝している。